スポンサーサイト

スポンサー広告

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop▲

24話 ミエナイ撮影

青春アメとミエナイ彼女



 最後の出演者、君島智幸の撮影。
 撮影場所は創始者の銅像前。指定したのは俺だ。
 ここで智幸と出会ったとき、夜桜に囲まれて儚げに立つ姿が印象的だったから選んだ。残念なのはすでに桜の花が散ってしまったことだけど、こればかりは仕方がない。
 六月特有のじめじめと湿気を含んだ空気は肌にまとわりついて不快だった。
 月明かりは分厚い雲に遮られている。微妙な天候ではあったが、雨は降らなさそうなので決行した。
 真季と海、そして俺は撮影準備に取り掛かる。
 肝心の智幸はというと、まだ現場に着いていなかった。撮影開始予定時間は午後九時三十分で、いまはまだ十分前だから遅刻というわけではないけれど……。
 どうにも不安だ。今日に限って夜の闇を濃く感じる。
 二部の授業はすでに閉講し、周りに学生はおらず静寂だけが漂っている。まるで黒い海に浮かんでいるみたいだ。これがもし真季と海がおらず、ひとりだったら足元をすくわれて飲み込まれるような不気味さがあった。
 結局、あの展望台の一件から智幸とは会えないままだった。
 最後に見たあいつの表情は哀しい微笑で、それがずっと網膜に焼きついたまま、時間が止まってしまっているかのような毎日を送っていた。
 智幸はカメラの前でなにを話すのだろうか。
 あいつの事情を知ったいまだからこそ思うが、この自分を語る撮影というのは、ひょっとしたら智幸にとって酷なんじゃないだろうか。
 一度は撮影を打ち切ってしまうのもアリかと考えたが、それはある意味で智幸の居場所を認めていないことと同義だ。これは二部メディア学科全員が参加して完成する映像。智幸の出演は不可欠。
 言いたくないことは言わなくていい。無理する必要はない。撮影に入る前にそれだけは言っておく必要があるだろう。
 ほかに問題があるならば――
 自分の手を見つめる。
 この手で智幸を、智幸の部分を、きちんと撮ってやりたいと思う。 だけど同時に不安もある。
 俺は智幸を撮れるのだろうか。
 ちゃんと、あいつの心を切り取って映し出してやれるだろうか。不安がぞわぞわと胸の内に広がっていて、プレッシャーで胃が締め付けられて――
「九ちゃんッ!」
 わっ、と大きな声量が塊となってぶつかってきた。意識が目を覚ます。
 気づけば、頬を膨らませて怒る真季が目の前にいた。
「もうっ! さっきからずっと準備できたよって呼んでたんだよ!」
「す、すまん」
「正確にはずっとじゃなくてずーーぅっとだからね。アメトーークみたいに伸ばし棒二本も付けちゃうレベルでの連呼だよ。もうこれから九ーーちゃんって呼びたいぐらいだよ。いっそきゅうりのキューーちゃんって呼んじゃうぞ」
「すまん」
「すまんって……。そこいつもならツッコむでしょうよ。らしくないなぁ、もう。マジでこないだから変だよ九ちゃん。いよいよラストカットだよ。トモちんの撮影なんだよ。しゃんとしてよ」
 真季の軽口にも対応できないほど、どうやら俺の神経はすり減っているらしい。
 今朝見た不快な夢が脳にこびりついている。いまも俺はどこかで怯えている。周囲の暗闇に紛れてひっそりアイツがカメラを回して、俺の一挙一動を撮って、性質の悪いマスコミみたいに悪辣な質問をぶつけてくるのではないかと。
「トモちんまだかな……早くこないかな」
 真季は唇をとがらせてぶつくさ独り言を漏らしてた。
「いつもなら十分前にはもう現場入りしてたのに、今日に限ってまだきてないなんて……。最近のトモちんもなんか変なんだよな。あたしと一緒の授業欠席してるし、メールもろくに返ってこないし。なんかあったのかな……」
 真季の独り言で俺に質問してきたわけじゃないのに、なんだかばつが悪くなってふいに目をそらしてしまった。その一瞬の動作を真季は見逃さなかった。
「九ちゃんなにか知ってる……?」
 智幸が授業を休みがちになっているのは知らなかった。ただ、なにかあったと聞かれれば心当たりは存分にある。
「九ちゃんも変で、トモちんもなんか様子が変で……あれ、そうだ、そうだよ。二人ともなんか変だ。これって無関係なの? 無関係じゃないよね?」
 こういうときの真季は目敏かった。こちらに詰め寄って「ねえどうなの」と聞いてくるが、なんて答えればいいかわからない。
「トモちんが前の撮影に不参加だったのも、九ちゃんがどっか上の空なのも、同じぐらいのタイミングで……なにか知ってるんでしょ九ちゃん? そうだ、ぜったいなにか知ってる」
「…………」
 俺の沈黙はある意味で肯定しているようなものだった。
「なんでダンマリなのさ。なんで話せないのさ! マジでトモちんとなにかあったの? 話してよ九ちゃん。あたしちゃんと聞くからさ、ねえ、ねえってばっ」
 真季が俺の両肩を掴まえて前後にぐらぐら揺らす。ぐるぐる目が回って気分が悪くなる。
「真季」
 助け舟を出したのは海だ。真季を制止させてくれた。
「そんな無理やり聞こうとしちゃダメだよ。九だって言いたくないことがあるんだ」
「だけどひとりでずっとずーーぅっと抱え込むのもよくないでしょ。話してくれれば解決することだってあるかもじゃん。思い詰めたってどうしようもないでしょ」
「……なるほど、確かに、一理ある。真季の意見も間違いとは言えない。わかった。じゃあ止めない。ぐらぐら揺らしてどうぞ」
「まかせろ! うおりゃあああっ!」
「助けてくれねえのかよ海っ! 真季もやめろこのバカっ!」
 俺は真季の手を乱暴に払う。揺らせば気持ち全部吐き出すとでも思ってのかこいつは。壊れた自動販売機じゃねえぞ。
「なに考えてんだ真季!」
「心配してんだ!」
 俺の芯を揺さぶるように語気を強める。両足をしっかりと地に踏みしめ、頼っていいと言わんばかりにぽんと胸に手を当てていた。
「あたしはただ心配なだけだよ。こないだから九ちゃんの調子がおかしくて、時間が経てば復活するかと思ったけどそうじゃなくて……友達の元気ない姿見るのが嫌なんだ。不安なんだよ。今日、いつもの楽しいゼミと雰囲気違うもん。なんだかボタンが掛け違えたみたいにズレていって、それでそのズレがどんどん大きくなっていっているような気がして……とにかくいまの感じはダメな気がして、ものすごくまずい気がして……」
 真季には珍しく声がしょげていた。俺の胸の内に蠢く不安が伝染したように真季は目尻を下げた。いつもひだまりみたいに明るい真季に翳りが差しているなんてめったにないことだ。
 困った。撮影前に沈んだ空気になるのはよくなかった。
 俺のせいだ。ぐらぐら足元を揺れて、ぼやぼやしてばっかだから撮影班まで不安が広がる。
 心配するなと、声をかけようとしたそのときだった。
「遅くなったね」
 夜の空気に響いた、鈴を転がしたような智幸の声。
 きた。
 背後に、智幸がいる。
 細胞が騒いでいるように肌がチリチリした。
 俺はゆっくりと、最初かける言葉を探りながら、スロー再生みたいに振り向いた。
 ――え。
 振り向いて、唖然とした。
 一瞬、本当に一瞬だったけれど、視線の先にいた人物を智幸だとハッキリしなかった。夜の暗がりのせいもあるかもしれないが、それが主な原因ではない。LED電球の光源が最も照らしている足元、そこから徐々に目線を上げていく。
 服装はさっぱりとしたパンツルック。ジーンズに白のTシャツ、そして、それを目撃した瞬間、のどが失われたみたいに絶句した。
 髪を切っていた。
 もともとショートだったけど、艶やかな亜麻色の髪はあごの辺りまで伸びていた。
 それがいまはばっさり切り落とされている。
 短髪。丸っこい両耳も出ていて、世間的に言えばベリーショートというのだろう。
 断髪後の智幸の印象はだいぶ様変わりした。端正な顔立ちがよりハッキリして、スポーツ好きな美少女のように見えた。
 ――だが中性的で、美男子のようにも見えた。
 ざわついた。
 胸の奥でなにかが黒く蠢いていた。
 ばさり。ばさり。髪が切り落とされる残酷な音が聞こえてくるようだった。それが自分の胸の奥にあるものすらちょんぎっていく痛覚があった。
 え、え、と真季が言葉にならない声を漏らす。海は無言のまま目を細めている。その断髪はイメージチェンジにしてはあまりに短すぎて、ひどく自傷的に映った。異変の前兆を感じていた真季と海にもそう見えただろう。
「……トモちん、それ……?」
 だからほら、真季なんて動揺してぐらぐらと視線が揺れている。
「高校の頃はこの髪型だったよ。お父さんによく髪切れって言われてたから」
 だれもが狼狽するなかで智幸だけがやけに落ち着いていた。それが奇妙で、アンバランスで、違和感だらけだった。
 なにが起きた?
 一体なにが彼女に髪を切らせた……?
 こいつにとって髪を切るって行為は重いことなんじゃないのか。重いはずだろ。
 想像力をフル稼働して智幸の背後に抱えている原因を探ろうとする。断髪はあいつの意志? あいつの決意? それともほかの要因? 父親?
 ――それとも俺か?
 俺がいけないのか? 池袋で見返り以上の求めたから? でも、だからといって髪を切る必要があるのか?
 わからない。夜の漆黒がすべてを隠して見えない。
「さあ、撮影をはじめよ」
 智幸はゆったりとした足取りで創始者の銅像前までたどり着くと、振り返ってカメラの正面に立った。夜の闇にさらわれそうな儚げな表情で、その双眸は俺に焦点を合わせていた。
 撮れ、というのか。
 髪を短く切ったお前を。
 これまで維持してきた自分らしさを失ったお前を。
 こうありたいというものを投げ捨てたお前を。
 この俺に撮れっていうのか。
「ふっざけんなッッ!」
 血液が沸騰した。
 目の前が真っ赤になる。胸の奥がぐしゃぐしゃに熱くなった。
「なんだよ……なんなんだよそれはっ! 違うだろ! お前はそうじゃねえだろ君島! ヤケになってんのかッ!」
「ヤケには、なってないよ。私は冷静だよ。本当だよ」
「じゃあなんで! どうしてそんなっ、そんな髪を……ッ! 俺か! 俺がいけなかったのか!」
「それは、違うよ。本当に違う。君が悪いとか、そういうことじゃない」
「じゃあなんだよ! ふざけんな、ふざけんなよッ! いまの君島を映せるわけないだろ! だっていまのお前は、お前は……っ!」
「君が私に望んだんだよ。出演してほしいって」
「違う! 俺が撮りたかった画は違う!」
「違わないよ」
「違えよッ! 俺が撮りたい画は、俺がいつも憧れを抱いている画は――ッ!」
 息を巻いた瞬間、かみなりに撃たれたような電流が全身を駆け巡って自覚する。
 ――それでも、撮ってほしいのか。
 どんな状況になっても、どれほど自分の外見が変わったとしても、それでも俺ならと自分の在り方を委ねてくれたのか。
 俺が撮りたかった画、それはずっと変わらない。高校の文化祭で観た映研の映像。カメラにしか映せないような人の感情や心情を切り取ったカットの連続。
 カラダだけではなくココロも。
 目に見える世界だけではなく、目に見えない世界だって映すこと。
「――いまの私じゃ映せない?」
 髪を切った智幸。こいつにどんな心境の変化があったのかわからない。はさみで切られて落ちたのは髪だけじゃなく、願いとか、希望とか、理想とか、そういった光り輝くものさえ切り落とされた気がした。
 どうして智幸がこんな状況に陥ったのか、足りない自分の頭をフル回転させてもなにもわからない。悔しいぐらいにわからない。
 わからないことだらけだけど、嫌がらせや当てつけで断髪するようなやつじゃないことぐらいわかっている。
 俺は前に言った。君島智幸は映像の中心で、核で、メインヒロインで。そんな智幸を通じて神に試されているようだった。
 ――三浦九はカメラフレームに〝彼女〟をおさめられるのかと。
 俺がちゃんと智幸を撮れるなら、たとえ智幸がどんな格好でも、どれだけ変わろうとも、胸の奥の扉を開いた先にあるものはなにひとつ変わらない。だれも見ることのできない世界から彼女をすくいあげて、撮って、映像にする過程。心の結晶化。
 真季も海も当惑している。まだ、現実を受け入れられていないみたいに呆然とした顔つき。いや、二人だけじゃなく、どれほどの人間が彼女を見てきたというのだろうか。
 俺が。
 俺がやるんだ。
 彼女のために。
 三浦九の真価が問われていた。
「――やってやるよ」
 決意を、胸に刻む。
「え、九ちゃん……? やるってなにを? ちょっ、九ちゃん!? ちょっとどういうこと……。なにこれ。なんなのこれ……。トモちん髪切って、九ちゃんわめいちゃって……。まさか……こないだ九ちゃんが質問してきたことって……九ちゃんっ、ねえ九ちゃん! ちゃんと説明してよ!」
 真季を押しのける。
 周りの雑音をすべて消す。
 余分な思考も一切カット。
 視界に入るのは智幸だけ。
 俺が撮るんだ。俺が撮るんだ。俺が撮るんだ。俺が撮るんだ。俺が撮るんだ。俺が撮るんだ。俺が撮るんだ。俺が撮るんだ。俺が撮るんだ。俺が撮るんだ。
 もはやそれは呪に近かった。逃げないように体を縛りつけ、みずからに呪をかけるように呟く。
 胸に渦巻くのは嵐のような衝動。使命感に似た感情に全身を突き動かされ、カメラの電源を入れる。深く暗い夜の闇を背負った智幸とレンズ越しに向い合う。
「撮影をはじめるぞ。真季、海、二人とも機材を持て」
「ちょっと待ってよ九ちゃん! さっきまで撮りたくないって言ってたのになんで急に……」
「真季はレフ板だ。準備してくれ」
「準備って……ダメだよ」
 怯えるように真季が一歩後ずさった。
「だって、変だもん。こんなの撮影する雰囲気じゃない。だって、だってさ……いまのトモちん見てると……撮影なんてできないよ。撮影したくない。だっていまのトモちんは」
「聞こえねえのか真季! 黙って俺の言うこと聞けッ!」
 咆哮に夜の大気が震える。俺の怒鳴り声に、真季は怖がって肩が震えていた。いつも笑っている彼女はそこにいない。縮こまりながらも、それでもぶんぶんと首を横に振る。
「……嫌だ、嫌だよ。だって、こんな撮影おかしいっ」
「おかしくねえ! 被写体がいて、撮影班がいて、これまでとなにも変わらねえだろうがッ!」
「九」
 落ち着けと言わんばかりに俺と真季の間に割って入ったが、もはや関係なかった。
「海、お前は照明だ。君島に照明を当てろ」
「冷静になりなよ。なにを焦っているの」
「焦ってねえ! お前らにだって協力してもらいたいだけだ!」
「トモちんっ、トモちんはこれでいいの? 本当にいいの!? トモちんだって本当はおかしいと思ってるでしょ。ねえそうでしょ!」
「私がいないと映像は完成しないよ」
「そうじゃないってば! あたしが言いたいのは、言いたいことはっ、綺麗な髪バッサリ切り落としてまでやることじゃ……!」
「どけ真季ッ! レフ板持たないなら邪魔だ! 俺の指示が聞けねえならどいてろ! カメラだけあればいい!」
「九! いったん休憩しよう。休憩できないなら今日の撮影は中止だ」
「ふざけんなッ! 中止になんてさせるかよ! ほかのだれでもねえ! 君島のちゃんとした部分を撮ってやりてえんだ! 俺がやってやりてえんだッ!」
 怒号、焦燥、痛烈、恫喝、使命。夜の下であらゆる感情を帯びた言葉が飛び交って混沌みたいに渦を巻いている。あらゆるベクトルは重ならず、闇の虚空のなかで乱反射して、衝突が次の衝突を加速度的に生み出していく。
「今日はもう終わりだ。機材、片付けるよ」海が三脚とカメラを持って撤収しようとして、俺はカメラだけ強引に奪う。「九!」海が声だけで静止するがもはや耳に入らなかった。
 カメラの支えなんて必要ない。俺が支えになればいいだけだ。
 照明もレフ板もなければないでいい。最低限必要なのはカメラ。智幸の心を映し出すものさえ手にしているならそれで十分。
 ずっしりと重みのあるカメラを肩に乗せる。カメラグリップをしっかりと握ってレンズをゆっくり智幸へ向ける。アングルは被写体の目線。フレームに智幸の全身が映り、ズームを調整して智幸をアップで映していく。
 やるぞ三浦九。俺がやるんだ。俺が〝彼女〟を映すんだ。
 彼女のために。智幸、智幸、智幸――
 集中。鋭利な刃物を砥ぐように極限まで神経を研ぎ澄ます。
 骨を、血を、精神力すらもひっくるめてショットに全霊をこめる。
 ハッ、ハッ、と呼吸がうるさかった。
 だれの息かと思えば、自分の息だった。
 ドクンドクンと心音までも聞こえてきた。体を通して脈動がカメラマイクに伝わりそうだった。
 ズームで智幸との距離が埋まれば埋まるほどひどくなる動悸。浮き彫りになっていく智幸の姿。
 レンズに映ったのは短髪。
 レンズに映っていないのは切り落とされてしまった亜麻色の髪。
 ――カラダだけが男の子なんだ。
 こんなときにリフレインする冷たい現実。心臓がねじ切れそうになるほど締め付けられる。
 頭を振って雑念を振り払う。
 しかし振り切れない。
 フレームは君島智幸の肉体的な部分しか映していない。
 ショットを変えてもアングルを変えても無意味。目も、鼻も、口も、耳も、指も、爪も、肌も、映し出せるのは目に見える智幸のカラダだけ。
 モニターに映った映像は真っ白な布地に墨汁を垂らしてできたシミのような違和感があった。やがてぼたぼたと大量の墨汁が白地に落ちていって違和感は強大なものになっていく。
 ――好きだっていうなら、どこに惚れたんだ?
 声が聞こえた。智幸の声じゃない。真季や海のものでもない。声の出どころは俺自身の胸の内からだった。
 溢れ出てくる自問をすべてねじり潰す。
 だが、潰しても潰しても洪水のように迷いがなだれこんできて俺の意志の支柱を押し流そうとする。
 ――心なんて撮れないと、本当はどこかでわかってんじゃないのか?
 むしばまれるような声が胸中から響いてくる。
 ――それでも、被写体の心を映すとしたら、それは被写体の言動だろうよ。新入生のために桜の鉛筆を作ってやった職人の顔、言葉、格好、仕草、そういう部分に滲むんだ。そういう部分をちゃんと〝見てきた〟人間だけが心を撮れるんだ。
 不安定な精神は肉体に影響を及ぼす。手が痙攣を起こしたみたいに震えた。カメラの重さをうまく支えられなくてブレる。次にひざにきて、足が木の棒みたいにぐらついた。
 ――オマエはカメラを向けているだけで、目は閉じてんだよ。
 うまく息ができない。
 モニターが夜の闇に塗り潰されていく。
 どんどん夜の黒がフレームに浸食していって智幸をさらってしまいそうだった。
 撮れねえ……っ。
 なんでだッ。どうしてだよッ。見えない。彼女が見えなくなっていく。そのうち見える世界すら視野狭窄を起こしたみたいに閉じていく。
 胸の奥を開いた先にいる彼女がフレームアウトする。
 天使みたいな羽を広げて可憐に踊る彼女の姿が幻となって霧散していく。
 閉ざされた扉。必死にこじ開けようとするがびくともせず、殴りつけて強引に壊そうとしても自分の手が血で真っ赤に染まっていく。
 ――彼女を撮れない……!
 そう思わされた瞬間、尖った氷柱に全身を貫かれたような激痛が走った。心の血がどばどばと流れ、足元に血溜まりが広がっていた。
 ひざの力が抜けていまにも崩れ落ちそうだった。歯を食いしばって踏ん張る。諦めちゃダメだ。諦めたくない。諦めてはいけないと血反吐を吐きながら踏ん張った。
 なのに。
「もう、いいよ」
 落ち着いた声で、智幸がそっと手を伸ばしてカメラを下ろさせた。あまりにそれが自然で、優しかった。
 ぽつりと、夜の天井から雨が降ってくる音が聞こえた。一歩、智幸が近づくと俺の頭上に降る雨脚は強くなった。
「撮ってくれようとして、ありがとう」
 感謝が痛かった。
「撮らせて、ごめんね」
 謝罪はもっと痛かった。
「このままでいいから、私の話を聞いてほしいな」
 雨に打たれる俺と智幸。不甲斐なくうな垂れる俺に智幸は支えるように言葉を置いた。
「展望台で別れたあとね、考えたんだ。自分の未来のこととか、君の気持ちのこととか、私なりにすっごく考えたんだ。ホント、いっぱい」
「君島……」
 間近で見る智幸の目は充血していて、目の下にはうっすらと黒い影ができていてた。
「前に大学の屋上で話したとき、君は羨ましげに言ったよね。普通がいいって。わかるよ。その気持ち、すっごくわかる。私も普通だったらみじめさとかなくなって、居場所に悩むこともなくていいなぁって考えたことあるから」
 ――みじめ、なんだ。
 屋上で智幸が俺に言ったセリフを思い出す。あれは俺だけじゃなくて、もしかして智幸が自分自身にも言っていたのか。
「目を瞑って、展望台で君にごめんねって言わなかった未来も想像したんだ。でもね、目を開けたとき、やっぱり見えちゃったんだ。だれもが普通にやれることとか、私といなかったことによって得られる、もっと、もっと別の巡り合わせとか、ほかにも、いろいろなこと含めて、私といることで君は……」
 そこで一度言葉を区切って、智幸は雨粒で顔を濡らしながらも薄い笑みを浮かべた。
「普通になりたくて、なれる機会があるとしたら、ちゃんと手に入れてほしい。そっちのほうが私も嬉しいよ」
「そんなの……そんなのっ、どうするかどうしないかは俺が決めることで――」
「お互い、自分の道を。それが一番だよ。君にとっても、私にとっても。それが私の精一杯考えた結果。だから、ここでもう」
 さーっと吹く夜風ともに、するりと俺の脇を智幸が通り抜けた。
 すれ違う。彼女が俺の視界から消える。
 闇に手を引かれるように遠ざかる足音。夜に飲まれる彼女の気配。
 離れていく。
 どんどん離れていく。
 このままじゃ、彼女はもう手の届かない場所に行ってしまいそうだった。
 ズキリと胸を抉られるような激痛が走る。一歩、智幸が離れていくたびに四肢がもがれていきそうだった。
 本能がこれまで考えてきたあらゆることを放棄して、告げた。
 離したくない。
 いままここで離しちゃいけない。
「智幸!」
 はじめて、声に出して彼女を呼ぶ。
 智幸と開いた距離を、空白を、ガッと地面を蹴り上げて追いかける。
 彼女に手を伸ばそうとした。
 だが。
「私が嫌なんだ」
 背中を向けたまま、智幸はガラスの壁みたいな言葉を俺との間に差し込んだ。
「君といると、私が嫌なんだ」
 心のど真ん中に風穴をあけられた。
「もう、私を見なくていいよ」
 それが、とどめだった。
 精神の柱が折れた音がした。
「トモちん!」
 真季が智幸を止めようと手を掴んだ。が、なぜだか真季が、俺が咆えても自分の我を通した真季が、フリーズして結局智幸を手放してしまう。
 俺はその場から一歩も動くことができなかった。
 気づけば、俺の頭上には雨が降っていなかった。
 まるで、智幸が引連れていったようだった。

PageTop▲

23話 向き合い方

青春アメとミエナイ彼女



 その日、広告論の授業がいっさい頭のなかに入ってこなかった。
 まどろんでいた。強烈な眠気が襲っても、もやもやとした気持ちが快眠を許さなかった。
 意識が覚醒したのは、同じ授業を受けていた真季が俺の肩を叩いてくれたからだ。
「九ちゃんなにぼけっとしてんのさ。もう授業は終わってるよ」
 授業終了のチャイムすら気づかなかった。
 辺りを見渡せば、学生たちがカバンをぞろぞろと退室している。俺ひとりだけノートを広げたまま席に座っていた。
「ちゃんと授業聞いてたの……って、うわ、ノート真っ白じゃん。広告論試験厳しいって話だよ。ぼやぼやしてたら単位とれないぞー」
 やれやれと、真季はどこぞの外国人みたいに大げさに肩をすくめてた。
「HEY、ボーイ。ノートを取り忘れるなんて困ったちゃんだ。そこで君に朗報さ。本日紹介するのはこれ、真季ちゃん広告論ノート! ビューティフルガール真季ちゃんのノートを、いまならなんと、なんとっ、学食十年分で手に入れられるんだぜ! HAHAHA! さあさあ、限定一名様の早いもの勝ちだ。欲しかったらいますぐTELだ!」
「学食十年分はぼったくりすぎだ」
「いまならオプションで海ちゃんがタンブラーに入れてくれたアイスコーヒーも付けちゃうぜ!」
「海に会いにいけばいつでも飲ませてくれる」
「おうおう、ダンナぁ。この真季ちゃんの好意を無視するってのかい」
「お前のキャラ設定がぶれすぎててわからねえよ」
 カバンにノートをしまって帰り支度をしていると、真季が顔色をうかがってくる。
「……なんだよ。人の顔をジロジロと」
「いやー、真面目な九ちゃんがノートとらないなんて珍しいなーと思って。そういやこないだの撮影のときもぼうっとして様子おかしかったし、だいじょーぶ? 体調悪いの?」
 こないだの撮影というのは、秋宮、佐竹、月野の三人をまとめて撮ったときだ。
 あのときの俺は、傍から見れば心ここにあらずといった感じだったのだろう。細かなミスを連発しただけでなく、なにを撮っても納得のいく画に仕上がらなくてリテイクを何度も重ねた。
 被写体の聞き役として機能していた智幸がいなかったのも、うまくいかない一因だったかもしれない。
 そう、智幸は撮影に参加しなかった。
 本来なら智幸もそこで撮ってクランクアップの予定だったが別日になった。
 撮影不参加の連絡は事前にメールでもらっていた。『本日の撮影に参加できません。ごめんなさい』と。
 詳しい理由は聞けなかった。
 欠席した智幸の身を心配している自分と、正直、あいつの撮影が順延してほっとしている自分がいた。
 真季は智幸の様子を気にしていた。「また体調崩してるのかな」なんて。
 真季は知らないのだ、俺と智幸が池袋に遊びに行ったことを。もし知っていたなら、その日の様子を再現実況しろと詰め寄ってきたはずだ。
 海の配慮だろう。俺と智幸がもしうまくいかなかったら――そういうことを見越して真季に話を広げなかったのだ。
 俺と智幸が遊びにいくなんてとびっきりのネタをよく黙っていられたと思う。本当にあいつは気配りのできるやつだ。
 海だって俺たちの結果がどうなったのか気になっているんだろうけど、無理に聞きだそうとしなかった。撮影でミスばっかりしていた俺を見て、海はなにか察したように帰り際「話したくなったら、言って」と気持ちを整理する時間をくれた。その優しさがありがたくて、でもなにも話せなくて申し訳なかった。
「ねえ、九ちゃんなにかあった?」
 真季の鮮やかな瞳に、俺の虚ろな瞳が投影された。
「……なんでもねえよ」
「なんでもないことないでしょ。顔色、悪いよ。ほら、なんかあったならこの真季ちゃんが相談に乗ってやるのだぜ。この海ちゃんが淹れてくれたアイスコーヒーを飲みながらともに語ろうではないか、兄弟」
 そう言って、ごくごくと勢いよくタンブラーのアイスコーヒーを飲む真季。
 ……どうする。
 真季に智幸の事情を相談すれば少しでもいい方向に事が運ぶのだろうか。五里霧中の状態に進むべき光は射すだろうか。
「真季は――」
 言いかけて、しかし気の引ける思いがストッパーとなって口をつぐませた。
 智幸がずっと抱えてきた問題を、俺が勝手に喋っていいのだろうか。打ち明けるにしても、まず智幸みずから話したいんじゃないだろうか。
 どうする。どうすればいい。
 相談したほうがいいんじゃないかと思う反面、易々と話してはいけない気もする。板挟みになって頭の中がこんがらがる。俺はどう言っていいかわからず、結局、直球なのか変化球なのかよくわからないおかしな言い方をしてしまった。
「真季はさ、海が実は女の子だったらどうする?」
「ぶ――――っ!」
 真季が盛大に吹き出した。九十年代のギャグアニメさながらアイスコーヒーが霧状になって俺の顔面に吹きつける。
「おい汚ねえなっ、飛ばすなよ!」
「九ちゃんが変なこと聞くからいけないんでしょ! さすがに飲んでいたコーヒ-吹くわ! なに考えてるのもう!」
「うっ……、ああ悪かったよ! きのうそんな話がテレビでやってたんだ。それだけだっ。じゃあな!」
 俺はカバンを背負って教室から出ていこうとして、けれど真季が俺の肩に手を置いた。
「ちょい待ち!」
 振り向くと真季の目の色は真剣だった。
「一応、考えるから。あたしの好きなラジオのパーソナリティーは荒唐無稽な質問だってちゃんと考えて答えるもん。だからちょい待ってて」
 真季は浅く目を閉じて、眉根を寄せて腕を組む。うーんと唸り、もし海がそういう状況になったらと想像しているように見えた。
 しばしの熟考後、目を開けた真季は張り詰めた表情で言った。
「海ちゃん、実は尻フェチなんだよ」
「ぶ――――っ!」
 今度は俺が盛大に吹いた。げほげほっとむせ返る。
「おい! お前こそなに言ってんだ」
「前にね、その手のDVDを海ちゃんの部屋で見つけた。うん、フェチ見つけたりって感じだったよ」
「ふざけてんのか」
「ふざけてないよ。そっかー、男の子だなーって思ったよ」
「なんで海の性癖がさっきの質問に答えることになってんだ。てか俺すら初耳だったわあいつのフェチ。真季は一体なにが言いたいんだよ」
「それでも恋はしないんだ」
 きっぱりと真季は言い切った。
「海ちゃんはそういうDVD観ても、えっろい格好の壇蜜見ても、佐々木希の悩殺ショットでも、それでも恋はしない。恋は、あたしにだけしてくれる」
 恥ずかしがるどころか両手を腰に当ててえっへんと誇らしげだ。
「デートしているとき、ひょんなことがきっかけでこんなこと言ってくれたことがあった。それはカッコつけかもしれないけど、でも言ってくれたんだ。肉体的なものに抱く感情は恋じゃなくて興味でしかない、って」
 真季は胸を、その奥にある人ならではの核をぽんと叩いた。
「あたしだって海ちゃんと同じだよ。同じなんだ。海ちゃんがなんであっても、関係ないよ」
 真季の視線はこの世界に形として現れない部分に向いているようだった。
 綺麗な答えだとは思う。だからといっていちいち文句をつけるつもりもない。
 ただ、そう割り切れる自信をどうして持ち合わせているのかわからない。
 それで真季は納得できるのか。割り切れるのか。
「……それで事実を受け入れられるのか? 恋人がそうであったとしても、真季は心の決着をつけられるのか?」
「あたしの言うこと信じられない?」
 真季の心の着地点に、俺はそう簡単に着地できない。これは単に俺が逃げているだけなのだろうか。考えているフリして、実際には智幸の真実に目を瞑って現実逃避しているだけなのだろうか。
「まあ、そうだね。それはやっぱり、その場面に直面した人間だけが説得力のある答えを出せるんだろうね。直面してないあたしがなにを言っても、きっと嘘っぽくなっちゃうんだろうな。だからわきまえていうなら、ちっぽけな想像だけで状況設定した、いまの段階で言えるあたしの答えってことになるね。言い方ややこしー」
 真季は腕を組んでもう一度考えるようにあごを引いた。二度三度うんうんと頷いてから、「これってさ」と人差し指をピンと立てる。なんとなくその仕草が海っぽかった。
「オンナとかオトコとか無理に枠に当てはめて考えるんじゃなくて、単純に好きかどうか、もっと言えばシンプルに一緒にいたいかで考えればいいのかな。だったやっぱりそう、、あたしが海ちゃんに抱く気持ちは変わらないよ。――だってさ、好きなんだもん」
 あっけらかんとした顔つきで言い切った。
「好きになっちゃったんだからしゃーなしだ。そうそう、好きなんだもん。うひょー、自分で言って引くぐらいラブがマックスじゃん。アタシの名前はマキマックス。海ちゃんの健康と恋愛を守ります」
 どこぞのキャラクターのモノマネをして笑う真季は陽光を浴びるひまわりみたいだった。俺の目がくらむほど眩しかった。眩しすぎて、目を瞑らないと自分の心が焼かれそうなほどった。
「あ、ちなみにDVDですが、海ちゃんはTHUTAYAでレンタル派です」
「あいつのキャラが崩壊する!」
「アタシはマキマックス。海ちゃんの健康と恋愛を守ります」
「プライバシーを守ってやれ!」
「ニシシ。なーんてね」
 おどけたようにカラカラ笑う。
 そこでわかった。真季は沈んだ俺を笑わせようとしていることに。海のフェチがどこまで本気でどこまで冗談なのかはわからないけど、俺を元気づけるように明るく笑っていたのは間違いなかった。
「九のダンナぁ。仕方ねえからあちきがタダで広告論のノート貸してやるでげす」
「だからもうキャラ設定がよくわかんねえよ。……ノート、助かる」
「うむ。助けてやったでげす」
「……真季は、大人だな。ずっと」
 きょとんと目を丸める真季。ぱちぱちと瞬きしたあと、目を細めて俺が偽物なんじゃないかと懐疑的に瞳が染まった。
「九ちゃんがあたしを褒めるなんてはじめてだ……やっぱりおかしいままだ。しっかりしてよ。もうすぐトモちんの撮影なんだから」
 そうだ。とびっきり大事な撮影があとワンカット残ってる。
 智幸と向き合う日は、もう目の前に迫っているのだ。



   ※



 夢を見ていた。
 薄暗い世界で、なぜか俺はカメラの前に立っていた。着ている服装はバイトの服装で、この格好で撮られると思ったら無性に恥ずかしくなった。
 ぽつぽつと雨が降りはじめた。雨が降って来たんだから撮影は中止だと思っていたが、濡れていたのは俺だけだった。
 目の前にいるだれかがカメラをセッティングしていた。暗がりのせいでカメラマンの顔がよく見えない。黒いシルエットみたいにどこのだれだか判別できない。
 ソイツはカメラを回しながら俺に質問した。
 ――君島智幸とは同じゼミ?
 質問の意図がよくわらなかったが、一応イエスと答えてやった。
 ひとつ答えると、調子に乗ったのかカメラマンは次々と質問をぶつけてきた。君島智幸は何歳? 君島智幸の趣味は? 君島智幸の好きな食べ物は? 君島智幸はどういう高校生活を送ってきた? 君島智幸は家庭でどのように扱われていた? 君島智幸は家族からどう見られている? お前は君島智幸をどう見ている? 君島智幸のなにを知っている? なにも知らないんじゃないか? どういう関係を望んでいるんだよ? 悩んでるフリして実際はただ現実逃避してるだけだろ? あいつのカラダがどうなってるか知ってんだろ?
「黙れよ」
 やかましかった。
 無神経な質問をぶつけられて腹立たしかった。しかもなにが苛立つって、ソイツはへらへら笑いながら聞いてくるのだ。こっちを馬鹿にしてる。
 どこのどいつだと思ってズカズカ近づいてソイツの正体を見極めてやった。
 俺だった。
 ぎょっとした。父親でも、母親でも、中学の知り合いでも、高校の知り合いでも、阿藤でも、鈴木果歩でも、海でも、真季でも、智幸でも、ほかの二部生でもない。俺だ。私服姿の俺。
 ほかのだれでもない。俺が俺のことを嘲笑していた。
 強く、拳を握った。眼前の私服姿の俺をぶん殴ってやろうと振りかぶった。
 ――君島智幸のこと好きだっていうなら、どこに惚れたんだ?
 殴れなかった。
 ヤツの質問が俺の右手を金縛りみたいに停止させた。
 すぐに返答ができなかったのだ。
「――あ」
 目が覚めた。
 気分は最悪だった。寝汗をびっしょり搔いていて、口内は粘っこい唾液で満たされていた。洗面所で顔を洗ってうがいをしても気持ち悪さが拭えない。
 鏡で顔を見ると頬がこけていてひどい顔をしていた。
 胃がぐるぐる回っている。気分が悪い。吐きそうだ。
 目線を横に滑らして壁にかかったカレンダーのメモ書きを見て、今日一日の予定を確認する。
 今晩は智幸の撮影だ。
 ああ。結局、気持ちが散らかったままこの日を迎えてしまった。
 どんな顔をしてあいつに会えばいいのか、いまだはっきりしていない。
 俺はあいつをどう見る?
 俺が想うのは――


PageTop▲

22話 これからのこと

青春アメとミエナイ彼女


   chapter.4


   cut.9 秋宮和夫

「ぼくは文芸サークルに所属してるんだ。そこで小説書いてんだけどさ、毎度締め切り前は徹夜なんだよ。計画性がなくてね。眠気と戦いながらキーボード打鍵していると頭くらくらしてきてさ、ステッキ持った妖精が見えるんだ。マジだよ、マジ。妖精に応援されながら薄れゆく意識のなか執筆して、『やっと完成した!』って喜んで……ハッと目を覚ますの。うん、夢見てたんだよね。原稿完成したのも夢の中だけだよね。実際は寝落ちして原稿落ちたよね。あとこの話、夢オチってもっとも許されないオチだよね。……次、がんばります」

   cut.10 佐竹一成

「携帯アプリ開発で一発当てたい! そう、在学中に起業できるぐらいに! というわけで、いま絶賛開発中なのがダイエットアプリ、その名も『萌えキャラと一緒に脂肪燃焼しよしよっ☆』。形式的にはレコーディングダイエットを採用していて、その日、口にしたものを入力すると自動的にカロリーが計算されるんだ。
 しかも、萌えキャラが不足しがちな栄養素を補えるメニューまで紹介してくれるんだ。『ビタミンB1を摂るには豚汁がオススメだよお兄ちゃん!』って感じ。もちろん萌えキャラの属性は数種類用意。ツンデレ、ヤンデレ、妹系などなど。
 さらに! このアプリのセールスポイントは目標体重に近づくにつれて萌えキャラがご褒美してくれるんだっ。最初はデレボイス、そして次にスチル挿入、最後に……むふ、むふふっ。萌えキャラの服が(以下カット)」

   cut.11 月野真美子

「メディアって聞いたらなにを思い浮かべる? テレビ? ラジオ? 携帯電話? ゲーム? 本? うん、どれも間違ってないよ。でも実はね、身体だってメディアなんだよ。身体を通して伝える、だから身体メディア。私は劇団に所属しててコンテンポラリーダンスをやってるんだ。どんなダンスかっていうと、こんな感じに身体を……え、よくわかんない?
 言葉で説明するのは難しんだけど、なんていうかな、私は身体を通してだれも気にしないような美や価値観を伝えたいんだ。じゃあどんなものか具体的に言うと……あー、言葉にしにくい! 知りたきゃぜひ劇場まで観に来やがってください!」



   ※



 ――これから、智幸とどう向き合えばいいんだ?
 展望台で智幸が打ち明けた真実を受けて、俺は頭が真っ白になった。
 これまでの智幸に関するあらゆる記憶がすべて裏返った。思考回路がぷつりぷつりと途切れて、壊れたパソコンみたいに停止していた。
 結局、智幸とは展望台で別れた。俺は声をかけることも追いかけることもできなかった。
 それから数日経って、時間を置いたいまでも智幸の事情をまだちゃんと飲みこめない。
 心と体で性別が違う。なにかのドラマでちらっと観た程度の浅い知識だけど、自己認識にズレがある人がこの世界にいることは知っていた。それに智幸が当てはまるのか、どこまで病的なものなのか、定かではない。けれどあのときの真剣な口ぶりから、おちゃらけではないことぐらいわかる。
 連日寝不足だったせいか意識はぼやけて頭が重い。ふらふらしながらも智幸の事情に当てはまるだろう図書を片っ端から手に取った。
 そう、俺はいま大学の図書館にいた。
 読書コーナーに設置された長机に腰をかけてそれら本を読みはじめると、これまで智幸と過ごしてきた時間が脳裏を過ぎった。
 思い返せば、おかしな点はあった。
 企画のプレゼンの際、真季が水着を着せようとして智幸は動揺して声高に拒否していた。あれは照れくささだけじゃなく、もっと別の気持ちが潜んでいたのだろう。
 鈴木果歩がヒロイン役に抜擢されて、あいつは自分では届かない世界を見ているようにうつむいていた。
 俺が見舞いに行ったとき、智幸は失神した。気を失うなんて大げさだと考えていたが、あれはいままで俺に見せたくなかった部分を見られそうになってパニックを起こしたんだろう。
 人の器に同居する矛盾した二つの部分。ココロはオンナで、カラダはオトコ。
 それならこれまでの言動に合点がいく。あいつが展望台で俺のしようとしたことに謝ったのだって……そういうことだ。
 でも、待てよ。じゃあ、こないだ一緒に池袋に行った智幸はどっちなんだ。心は女の子なんだろ。なら、だれがなんと言おうと女でいいじゃないか。いや、実際に体はそうじゃない。映画館で握った手だって、桜色の唇だって。いやいや、ちゃんと内面を見てから物を言えよ俺。智幸の振る舞いは女の子じゃないか。ゆるキャラに興奮している様や夜景見て爛々と輝かせる目。そうだよ、あの池袋の時間は女の子である智幸と一緒にいたんだ。いやいやいや、その理屈は強引だろ。じゃあ体の部分は気にしなくていいのかよ。無視か。無視。いやいやいやいや、さっきからごちゃごちゃうるせえよ。いやいやいやいやいや、事実だろ。逃げてんじゃねえよ死ね。うるせえお前が死ね。いやいやいやいやいやいやいや、いやいやいやいやいやいやいやいや――
「……落ち着けよ、俺」
 混乱していた。
 ずっとだ。智幸と別れてからずっと非生産的な思考が空回りして、糸の乱れたリールみたいにぐちゃぐちゃになっている。
 目を閉じて智幸の姿を浮かべれば、淡い桜色の口紅でめかした端正な顔が真っ先に浮かぶ。デートのときの智幸の服装も、可愛らしく彩られた部屋も、それらを考えたら本当の自分は女の子、だからそうありたいという意志の表れはわかる、けど……。
 なにかあいつに関して少しでも知れればと、今日はバイトがなかったからこうして専門書を読んでいるが、だんだんまどろんで文字が頭に入ってこなくなる。寝不足のせいか、それとも現実をまだ受け止められない俺の狭量のせいか。
 ポケットに手を突っ込むと硬い感触が指先を触れた。
 携帯電話。智幸が選んでくれた最新機種。
 表示された番号をタッチすれば智幸に電話がかかる。
 たったそれだけのことが、できない。
 あいつとの向き合い方がわからない。
 智幸への気持ち、胸の奥の奥にくすぶらせているモノは、あるにはある。
 けれど、智幸の真実を受けて盤面が揺らぎ、オセロの白黒がひっきりなしに変わるように落ち着かない。
 俺はあいつのどの部分に惹かれたことになる?
 俺が想うのは?
 あいつの、あいつのどこを――
「…………」
 智幸に対しての心の置き所が見えない。抱いた気持ちはあるのに、着地点が見えない。
「……どうすりゃいいんだ」
 そう、呟くしかできない。
 そのときだった。カツカツとヒールを鳴らす音が聞こえた。静寂な図書館にやけに響いていたが、ふと鳴り止んで背後に人の気配を感じた。
 気になって振り向くと――
「あ」
「あ」
 ちょっと驚いたように声を漏らしたのは俺と、彼女だ。
 透き通るような肌色の美脚を見せつけるかのような、大胆なホットパンツ。砂金を振りまくかのような派手な金髪。一目見れば忘れないほどの美人。目の前にいたのは一部メディア学科所属――鈴木果歩だった。
「あれ、あなた確かぁ、えっとぉ……?」
 一方で鈴木果歩はうーんと指先を頭に当てて考え込む。やがて思い出したのか目を電球のように光らせた。
「あ、思い出したぁ! 学生プロレスのレスラーさんだ!」
「違えよ。どっから学生プロレスでてきた」
「じゃあ、学生プロレスのレフリーさん?」
「学生プロレスにこだわりすぎだ! 俺は三浦九。君島智幸と一緒のゼミの」
「あっ! そうだそうだ思い出した! ごっめーん。果歩、あんまり興味ないとすぐ忘れちゃうから」
 こいつ、いまさらりと俺のこと興味ないって言ったよな。
 やっぱりこの手のタイプは苦手だ。なにかとペースを乱されて調子が狂う。
「謝るからむっとしないで。ごめんごめん。ちょっと前に智幸と一緒にご飯してた二部の人だよねー。こんなところで会うなんて偶然だぁ」
 完全に思い出したと鈴木果歩は手を叩いたが、その音がうるさくて通りがかった司書が「しっ」と人差し指を口に当てて注意する。一応ここは館内でも私語ありのスペースだけど、鈴木果歩は度が過ぎていた。
 鈴木果歩がぺろっと舌を出して司書に頭を下げている。なにやってんだよ、この人は。
「あんた、図書館になにしにきたんだよ」
「え、課題の資料集めだよー。締め切りはまだ先だけど、早め早めにやっておかないとあとで大変だからぁ」
 注意されて反省したのか口に手を当てて囁く。やたら彼女の顔が近い。鉛筆でも乗せられそうなつけ睫毛が目につく。
「キミも課題? なにを調べてるのー」
 鈴木果歩は机に散らばった図書のタイトルに視線を送って、整った細眉をぴくりとつり上げた。アイメイクでぱっちり開いた目をさらに大きく開いて俺の顔を一瞥、そして再び図書を見つめた。
 少しの沈黙のあと――なにか察したように妖しく笑った。
「そういうこと」
 鈴木果歩がわざわざ隣のイスを引いて座った。まるで俺に興味を抱いたように、ばっちりメイクした小顔をこちらに向けてくる。
「――智幸のこと、気づいてなかったんだ」
 ドキリとした。心臓が胸骨を突き破っていきそうだった。
 雲の上を歩くようなほわほわとした人だと思っていた鈴木果歩が、察しのいい一面を持ち合わせて驚いた。
 この人は智幸の事情を知っている? いや、昨年度一緒のゼミなら知っていてもおかしくないのか。
「なんで、俺が智幸のこと気づいたってわかるんだ……」
「別に勘がいいとかじゃないよー。果歩もぉ、気づいたとき似たようなことしたから」
 鈴木果歩も同じことをした? この人が俺と同じ?
 意外だ。唯我独尊とはいかないまでも、自分のペースで何事も進めそうな気質の鈴木果歩が他人を気にかけた?
 興味を持ったからか?
 智幸の事情を聞けば気にはなると思うが、鈴木果歩は他人に目を向ける人間とは思っていなかったのに……。
 それとも去年、注意を引くような事件でも起きたのだろうか。
「昨年度、智幸になにかあったのか……?」
 不安げに聞くが、鈴木果歩は鮮やかに塗られたマネキュアに息をかけながら平然としていた。
「別にー。特別ななにかがあったわけじゃないよ。まあ、智幸の事情を知ったからといってフツーといえばフツー。なんだけど……」
 黄金の髪をかき上げるとやや神妙な面持ちの鈴木果歩の横顔がのぞいた。
「騙されてたってのは違うんだろうけど、全員じゃないけど、そういう事情知らない人たちはすっかり女の子だと思っていたからびっくりはしたよ」
「智幸みずから打ち明けたのか?」
「んー、というよりぃ、仕方なくって感じ。基本全員参加のゼミ合宿になぜか智幸キョヒって、なんでなんでってみんな執拗に聞いたからなんだよね。そこでしぶしぶ教えてくれたってわけ。まあ、それ聞いたからって大きな変化があったわけじゃないよ。ホント、フツー。けど、ちょっとねー。フツーなんだけど、ほら、フツーにしようという気持ちがなんかフツーじゃないっていうか、構えてるってことじゃん。智幸も智幸でそれからより距離を取るようになった感じ。果歩はぁ、あんま気にしてなかったけどー」
 面白くない話だと思ったのか、鈴木果歩はそこで言葉打ち切ってマネキュアの色合いをうっとり眺めはじめる。
 鈴木果歩の話を聞きながら、俺は以前智幸から聞いた言葉をぼんやりと思い出していた。
 ――時々、大学辞めて帰ろうかなって気持ちが揺らぐんだけどね。
 昨年度の智幸は自分の事情を明かして、大学に通うことにイスとイスの狭間に座っているような居心地の悪さみたいなものがあったのだろうか。
 転部の一番の理由は経済的な事情のような感じで話していた。それは間違いないのだろうが、親に援助を打ち切られてぐらぐら揺れているときに、ちょっとした、でも気持ちにちくりと刺さる人間関係だって、転部の割合を占めていたんじゃないだろうか。
 鈴木果歩は気にしてないというが、ほかの一部の連中はフツーを装いながらもどこかでどう向き合えばいいのか探っていたのだろうか。
 俺は?
 ふいに降ってきた疑問。俺の場合は智幸とどう向き合う?
 ほかの連中とは違う。ただのゼミ友達という範疇を超えて違う場所に向かおうとした俺はどうすればいいんだ?
「キミさ」
 鈴木果歩が頬杖をついてこちらをじっと見据えた。目元が寝不足で黒ずみ、満足に食事をとらずやつれた俺の顔を凝視して言った。
「――がっかりしたのかな」
 胸を撃たれたかのようなショックが全身を貫いた。
「ち、違っ……! 俺はっ」
「でもフツーじゃん、それ」
 たとえ取り繕いだと責められても、それは、それだけは智幸に失礼に当たると反論しようとしたのに、鈴木果歩は率直で飾りげなく、平然と諭すようだった。
「果歩にはね、すっごく素敵な彼氏がいるの」
「は? 彼氏?」
 いきなり話が飛んだ。突拍子のなさに戸惑う。
「背が高くてぇ、スタイル抜群で、小栗旬にチョー似てるイケメンなの! だれが見てもカッコイイカッコイイって言うほど!」
「はあ」
「果歩とデートするときなんてぇ、いちいち新しい服買って、モデルが通うような美容院で髪切ってもらうんだって。『オレは彼氏として果歩とつり合いたい』そんなこと言って気合い入りまくり。チョー可愛いでしょ!」
「あの、えっと、ノロケ話……?」
「しかもチョー優しいんだよ。誕生日には果歩が好きなスヌーピーのオルゴール買ってくれたの! うふふっ。いい歳した男がひとりでスヌーピーショップうろうろ歩き回って悩んで買ったんだって。やぁんもう、想像しただけですっごく好き! 顔がよくてぇ、果歩の好きなモノを真剣に悩んでプレゼントしてくれてぇ、しかもいまから結婚資金貯めるとか意気込んじゃってるの。照れちゃうなぁ、うふふっ」
「えっと鈴木さん! もうノロケ話はわかったから! 俺たちが話してしたのそういうことじゃなくてっ」
「――果歩が好きなのって外見もなんだよ」
 装飾も欺瞞もなく、鈴木果歩はそう言い切った。
「外見とかー、見栄えとかー、もっと言えば手に触れられる部分とかー、そういうの重要視するのって、特別じゃないことでしょ。フツーにカッコイイ彼氏友達に見せたいし、ほかにも、いろいろあるじゃん。だからもし、もしだけど、果歩の彼氏の体が彼じゃないと知ったら……やっぱり果歩だってがっかりすると思うよ」
 つい、黙ってしまった。
 なんて言葉を返せばいいのかわからなかった。
 ガイケン、カオ、カラダ――視界に映るモノは愛おしい。そう鈴木果歩は言いきっているのだ。
 それが正しいかどうかはわからないが、暗い森で彷徨っている俺とは違って鈴木果歩の双眸に迷いはなかった。
「だから、フツーなんじゃない」
 鈴木果歩の声がやけに頭に響いた。
「がっかりしたって気持ちがある人は、果歩はフツーなんだと思うよ」
 普通。
 なぜだ。あれほど望んでいたものなのに、いま普通という証明書を拾っていいと言われても、胸が苦しいだけだ。
「こんなことを平気で言っちゃうからダメなんだろうね」
 鈴木果歩は苦笑いしていた。
「こんな果歩だから智幸と仲良くなれなかったのかなぁー」
 どこか物憂げの鈴木果歩は、皮肉ではなく本当に残念がっているように見えた。
 お互い、しばらく無言が続いた。
 どこからか図書のページをめくる乾いた音が聞こえた、そのときだった。
「――それでも好きでいられるかな」
 不意に漏らした鈴木果歩の言葉に、なにか突きつけられているように感じて俺はびくりとなった。
 だけど、鈴木果歩は図書館の天井をぼんやりと見上げ、そのセリフは俺個人に向けられただけでなく、智幸の事情を鈴木果歩自身の場合に当てはめて自問しているようにも見えるし、世界のどこかにいるだれかに投げかけているようにも思えた。
 しばらく鈴木果歩は考え込むように天井を眺めてから、言った。
「果歩ね、智幸に感心したことがあるんだー」
「感心?」
「綺麗でしょ、智幸。ホント綺麗。智幸さ、クリームなに使ってるか知ってる? 前にちょっと聞いたんだけど、ドゥラメールだよ、ドゥラメール! もーめっちゃ高いんだよ! 果歩だって使いたいよぉ! あれ、わかってない……? 果歩の言ってること理解できる? わかんないの!? もうこれだから男の子は!?」
 ぐっと拳を握ってまくしたてるように語る鈴木果歩。よくわからいないがその勢いに気圧されて俺は「お、おう……」としか反応できない。
「あの子、肌の気遣いハンパないって見てればわかるからね! それで果歩、感心したもん。それにくらべてさぁ、ときどきキャンパスにもいるんだよねぇ、ろくに化粧もしてない女―。忙しいって言うならせめて眉の処理ぐらいしといてよって話だよ。あいつら女捨ててるでしょ。そういうズボラな子と智幸を比較したら、いや比較とかじゃなくて、私がもう感心しちゃってるなら――」
 言いながら「あれ」と自分自身で疑問を抱きながらも、なにかおぼろげな答えを掴んだかのような顔をした。
「果歩にとって、それって――」
 声のつまみを回して大きなボリュームで話していた鈴木果歩に、司書が鬼みたいな形相で睨みをきかせる。「ご、ごめんなさーい」なんて鈴木果歩がぺこぺこと頭を下げていた。
 俺は、鈴木果歩の言葉の意味を考えていた。
 目に見える世界に注視するというのは極端なんだろうけど、でも、だからこそ見えるものがあるのだろうか。
 以前食堂で智幸と鈴木果歩が鉢合わせたシーンを思い出した。映像に出演するヒロインとして服装が似合うかどうか聞く鈴木果歩。見える世界を悪く捉えて、一面的にカメラを固定してしまえば、あのシーンは自分の美貌を見せつけている意地悪な場面に映るかもしれない。
 けれど見方を変えれば――鈴木果歩は智幸を自分と同じ友達だと見ていたから、だからああやって近寄ったとも見えなくないだろうか。
 ほら、よくあるじゃないか。女の子同士服を買いに行って、この服似合ってるとか、似合ってないとか、仲良さげにじゃれあう光景。
 目に見える世界なんて見えて当然、知ってて普通。そうやって俺はどっかで軽んじていなかったか?
 さっき鈴木果歩と出会ったとき、鈴木果歩は他人を気にする気質じゃないとか勝手に測っていなかったか? 鈴木果歩の生い立ちも、学生生活も、人柄だってたいして知らないくせに。
 俺ははき違えていたんじゃないか。視野を固定して、勝手にそいつのすべて見た気になって、そいつの一面だけですべて判断していなかったか?
 いままであらゆることを、ちゃんと見ようとしてこなかったんじゃないか?
 連鎖的に思い出したのは、阿藤との食堂でのやりとりだった。
 いまでも阿藤の物言いは嫌気が差すし、ヘラヘラした態度も好きにはなれない。仲良くなる気なんてさらさらない。でも、一歩後ろに引いて、視野をワイドにすればまた違った光景が見えるのだろうか? 第三者の立場に立てば、ただ声をかけただけって見方になる? じゃあなんだ。俺が馬鹿にされていると感じたのは?
 ひょっとしたら俺を馬鹿にしてんのは――
「あーあ、司書さんに目つけられちゃった。果歩、ここにいるとそのうち司書さんにつまみ出されちゃうからもう行くね」
 鈴木果歩はイスから立ち上がって、
「それでも、好きでいられるのかな」
 ぼんやりとさっきのセリフをもう一度繰り返していた。自分に問いかけているのか、他人に問いかけているのか、よくわからない感じで。

PageTop▲

21話 ミエナイ彼女

青春アメとミエナイ彼女

「あのときはびっくりしたよ。本当にいきなりだったから。……でも、でもね、それ以上に嬉しかった」
 予感があった。智幸がこれから話すことはあの日の続きだと。俺の告白を受けての返答だと。
「可愛いって、一目惚れしたみたいって、そう言ってくれたこと嬉しかった。ホントは私、肩幅とか結構広いし、服装だって心の中じゃ似合ってないんじゃないかってビクビクしてて……。だから、だからね、たとえ見た目だけでも、嘘だったとしても、可愛いって思われて嬉しかったんだ。本当だよ。君の前では冷静でいたけど、もう心の中は舞い上がちゃってさ、帰ったあとベッドにうずくまってジタバタしてたんだ」
「君島……」
「食堂でメインヒロインって言ってくれたときなんて、私のことちゃんと認められたみたいで心が躍ってたんだ。今日なんてスカート可愛いって言ってくれて、さっきは一度別れたはずなのに君が戻ってきて……夢見てるみたいだと思ったよ」
 じゃあどうしてさっき俺についてくるのかどうか葛藤する必要があったんだ。迷う必要なんてないじゃないか。
「でも、でもね。君は、君のために私は……やっぱり、こんな、こんな私じゃダメなんだ」
 胸が痛むのか手を当ててうな垂れる智幸。
「私は……君にまだちゃんと話してないことがあるんだ」
「話してないこと?」
「ねえ、世界構成に必要な人の最小単位って何人か知ってる?」
 いきなり話が飛躍した。突拍子もないセリフに俺はなにも答えられず立ち尽くしてるだけだった。
「二人だよ。ある授業で言ってたんだ。自分と、もうひとり。その他人が自分を観測して、自分が他人を観測して、はじめて世界が成り立つんだって。つまり、自分を確立するのに必要なのは自分じゃなくて他人なんだって。自分で自分をいくら定義してもダメなんだって」
 そこまで聞いても俺にはまだ智幸の気持ちすべてを理解するに到れなかった。奇妙な不安感だけがぞわぞわと足元から這い上がってくる。
「そんな哲学的で小難しい真理は知らない。自分は自分。私はそう思ってるよ。思ってるけど、他人はそう見ないかもしれない」
 智幸の声は渇いていて温度が感じられなかった。今日一日過ごしてきたひだまりみたいな時間までも暗い影が差すようだった。
「……嘘ついてるわけじゃなかったんだ。騙してるつもりだってないよ。私は、私だから」
 ざわざわと胸騒ぎが強くなっていく。
 おかしい。手の届くところに智幸がいるのに、なぜだかどんどん距離が離れている。エスカレーターの流れに逆行しているみたいに、進んでも進んでも距離が埋まっていかない。
 焦った。智幸がいつか声の届かない世界に行ってしまいそうで。
「怖かったんだ。本当のこと話すの、怖かったんだ。君に失望されたくなくて。君が離れれば、私は……。私だって、本当は私だって、君を――」
 智幸は顔を上げて、でも、それでも、続きの言葉をぐっと飲み込んだ。痛みに耐えているみたいに歯を食いしばっていた。まるでそれを口にすれば罪になるとでも言わんばかりに。
 だったら、俺が。
「君島、俺は――」
「三浦くん」
「君島! 聞いてくれ! 俺はお前を――」
「ありがとう」
 息が、詰まった。
 呼吸を、忘れた。
 ――智幸が上を向いていた。
「ごめんね」
 ぽつりと、肌に落ちた滴。
 冷たそうな水滴が、生ぬるい匂いとともに降りはじめた。
 雨だった。
 無論、展望台は屋内で、そもそも窓ガラスの向こうにある池袋にだって雨なんて降っていない。
 たったひとり、心の世界に降りしきる雨。
 雨粒に濡らされたのは、俺ではない。
 ――智幸だ。
 俺には確かに見えた。灰色の分厚い雲に覆われた世界で、智幸にだけ降りしきる冷たい五月雨が。
「……シンデレラみたいに浮ついて、なに調子に乗ってるんだろうね、私」
 スカートをくしゃりと掴んで智幸が見せた表情は、不格好な微笑みだった。統一感の取れてない福笑いみたいな、切って張ったような微笑。
「――私は普通じゃないんだ」
 ざあざあと雨脚が強くなっていく。全身を打ちつけるような雨に、それでも智幸はやはり微笑みを装った。
「たぶんね、神様にイタズラされちゃったんだと思う」
 銃弾のように激しく降り注ぐ雨粒。どんどん笑顔のメッキがはがれてひび割れていく。無理して明るさを口元にぶら下げているのが明らかで、見ているこっちの胸がズキズキと痛んだ。
「私がいままで言ってきたことは、決して嘘じゃないよ」
 胸を、その奥の奥にある人間しか持ちえない部分をぽんと叩いた。
「でもね」
 声が掠れていた。
「……でも、ね」
 胸に置いていた手を、ゆっくりと、かすかに震わせながら、自分の頬へと触れた。
「こんなカラダじゃダメなんだ。人並みの恋愛なんて望めないんだ。この頬も、口も、目も、鼻も、耳も、手も、足も、このカラダは――」
 泣き笑いのような表情で、智幸は打ち明けた。
「男の子なんだ。カラダだけが、男の子なんだよ」

PageTop▲

20話 これはデートか見返りか?3

青春アメとミエナイ彼女



「ストーリーが頭に入らなかったよ」
 上映終了後。智幸も俺と同じ気持ちを抱いていたのかと思ってドキリとした。
「4DXの座席効果すごかったんだもん。本物の煙がぶわーって噴出して、シートはぐらぐら揺れちゃって! ああ、楽しかったなぁ。ストーリーに集中できなかったけど満足だ」
 ……なるほど、そういうことか。
「でも、元々ストーリー性は薄いよね。わかりやすい勧善懲悪ものだったし。けどウリは脚本じゃなくてVFXの技術だね。あんな複雑なメカの変形を丁寧にCG処理できちゃうなんてすごい。CG技術じゃやっぱり邦画は太刀打ちできないのかなぁ」
 シアターから出て歌うように感想を口にする智幸。人差し指を指揮棒のように振って映画のポイントをまとめる仕草は上機嫌そのもの。グッズ売り場でパンフレットも買って満足そうな顔をしている。
「男の子のツボをついている作品だったよね。破壊と爆発、そして変形。もう戦闘シーンで爆発多すぎて世界救ってるんだか破壊してるんだか」
 パンフレットを開きながら監督のインタビューにうんうんと頷いて感心している。このまま放って置いてもあと三十分は感想を述べていそうだ。
 恋愛映画じゃなくても楽しんでくれたみたいでそれはよかったのだが、俺の意識は別のところに向いていた。
 映画の終わりはすなわち、見返りを果たしたことと同義だった。
 気づけば映画館の出入り口。楽しい時間の終わりを前に、俺は一度手前で足を止めたが、立ち止まっていても仕方なかった。
 夢と現実の境界線をまたぐように自動ドアをくぐって外に出た。
 暮れなずんだ池袋の色合い。空は藍色から闇色へとグラデーションしていた。
 夜の闇に負けないようにと池袋の街が発光する。チカチカと目に刺さるような電飾があちらこちらで輝いていた。
「――で、どうだった?」
 急に智幸の声がよく聞こえた。遠くに飛んでいた意識が現実に戻る。
「あ、悪い。ぼうっとしてた。なんだっけ?」
「もうっ。なんでちゃんと人の話を聞いてないのかな。4DX楽しめたかなって聞いたんだけど」
「ああ、そりゃもちろん楽しかったよ。ありがとな、君島」
「よかった。見返り、これでちゃんと返せたね」
 貸し借りゼロ。智幸の言い方は区切りをつけて線引きし、距離を取ったように聞こえた。
 そこでぷつりと会話が途切れた。
 こういうとき、どう声をかければいいかうまい言葉が見つからなかった。
 映画観の前に立ったまま、互いに言葉を失くしたように佇む。街の電子音や行き交う人々の足音が耳に響く。互いに立っている間には空白があって、街灯に照らされて伸びた影が重なることはない。
 今日、智幸と過ごしてきた時間は借りた分を返すだけ。
 そうだ。最初からわかっていたじゃないか。だからこれ以上一緒に時間を過ごす必要はない。
「終わり、だね」
 やがて、絞り出すように智幸が呟いた。
 しばらく地面に根を生やしたように不動だった智幸が、駅へと戻る人波に流されるように、靴底をコンクリから引っぺがして足先を帰途へ向けた。
 智幸の歩調は行きとくらべて時間を使うようにゆったりとしていたが、途中で絶対に歩みを止めることはなく、その両足が止まったのは改札前だった。
「私、こっちの路線だから」
 くるんとスカートをはためかせてこちらに振り向く。楽しさと寂しさと、満足と不満足と、どっちつかずの中間にいるような微笑だった。
「ここで、お別れだね」
 智幸の声は駅構内の雑踏に飲まれそうだった。
 すぐ隣にある改札はこれまで見えなかった一線の暗喩みたいに見えて、くぐってしまえばもう二度と会えない気すら起こさせた。
「久しぶりにだれかと過ごした休日だったよ。4DX、観れて楽しかった」
 目線を落とすが、それは一瞬。すぐに手を肩口まで上げた。
「また、ゼミで。……バイバイ」
 別れの合図を切り出された俺は、
「ああ、またな」
 そう、返事することしかできなかった。
 俺は踵を返した。後ろ髪を引かれそうになりながらも視界から智幸を消した。
 今日の智幸との時間は見返りだ。だからここで別れるのは当然で正しい。向こうだってそれを承知しているから別れを切り出したんだ。
 なに、十分じゃないか。携帯を契約して映画観て充実した一日だったろ。満足、満足だろ。
 これ以上の時間を求めることはまた違った意味合いを持ってしまう。だから俺はみずから離れるように一歩踏み出した。

 ――後悔したくなかったら自分の気持ちに嘘ついちゃダメだよ。

 立ち止まった。
 海のセリフが強烈に響いて俺の両足を縛りつけた。
 足が帰ろうと一歩を踏み出せない。体が心に対して満足なんて嘘っぱちだと見抜いていた。
 抑圧していた感情がまるでバネのように跳ね上がって全身を突き動かし、ジャケットを翻して智幸へと振り返る、その刹那で思う。もう遅いと。きっと智幸は改札をくぐってしまっている。越えられない改札、彼女との埋まらない距離。そして彼女の耽美な亜麻色の髪は有象無象の群集にのまれて見つけられないと。
 ――けど、いた。
 智幸は佇んでいた。まるで俺の背中が消えるまで見送るように。
 地面を強く蹴り上げた。コンマ数秒でも早く、智幸との距離を埋まるように。
「あのさ!」
 別れたはずの俺が目の前に戻ってきて智幸はきょとんと目を丸めていた。だけど俺は気にせず、マグマのように湧き上がってくる気持ちをぶつけた。
「連れて行きたいところがあって、その、それは、サンシャイン60の展望台に一緒に行きたいんだ。だから、ちょっとのあいだ……付き合ってほしい」
 ときどき声を上擦りながらも、なんとか言えた。
「えっと、あの、えと」
 あわあわと口をまごつかせる智幸。突然の提案に脳の処理が追いつかないのか、視線があちこちに飛ぶ。うつむいて、顔を上げて、うっすらと赤らんだ顔でまたうつむいて。かしかし、と横髪を掻く。
「い、嫌なのか!?」
 これで「嫌だ」と断られたら地面に頭打ちつけて死んでやろうと思ったが、智幸はぶんぶんと髪を乱すほど首を横に振った。
「ち、違うっ。そういうわけじゃ……」
「じゃあなんだ!? 高所恐怖症か?」
「ばっ、バッカじゃないかな! そんな子どもみたいな理由じゃないよ! その、実は、私……」
 智幸はうっすらと赤らんだ頬に手を当てる。
「こんなにたくさん、二人きりで異性と過ごしたことなんて、なかったから、その、だから、どうすればいいのかわからなくて……」
 最初は単にはにかんでいるだけかと思ったが、やがて困り果て、揺れて、最後に智幸はどこか哀しそうにうつむく。敷いた一線を越えるかどうか、外側と内側の境界線上に立って葛藤しているように見えた。
「このまま終わるのは、なんか、物足りないって思ったんだ」内側へと手を引くように言った。「なんつーか……楽しかったからさ」
 いろんな言葉が浮かんだがどれも着飾ったように嘘っぽくて、率直に言ってしまった。
「ほら、行こうぜ」
 俺が再び池袋の街へと足を出すと――智幸はついてきてくれた。彼女の顔を直視するのは気恥ずかしくてできないが、彼女との時間がまだ終わらないことに胸をくすぐられるような心地だった。
 雑居ビルの区画を抜けて視界が開けると城のようにでんと構えたサンシャイン60が現われ、ビルの中に入ってそのまま高層行きのエレベーターに乗る。エレベーター内に表示された移動速度は加速度的に増していき、すぐに六十階の展望台へと到着した。
 受付で入場券を買って俺と智幸は展望台内へと踏み入れた。
 瞬間――ぐわっと視界がワイドに広がった。
 高さ二三〇メートルの世界が、そこにあった。
「わぁ!」
 胸の前で手を合わせて感嘆する智幸。テテテ、と一目散にガラス窓に近寄ってのぞきこむように夜と光の世界を眺める。
 俺も息をのんだ。圧巻だった。
 光が洪水みたいに溢れている。車のライトが大動脈みたいに流れて、池袋の街そのものが生きているみたいだった。
「あ、あっちが駅の方面なんだ。映画館はサンシャイン通りだから向こうかな。あそこらへんはさっきまで一緒に歩いていたところだよね。わぁ、綺麗……素敵だなぁ」
 さっきまでの戸惑いはどこにいったのか、智幸はうっとりとした目つきで池袋の街を指でなぞる。今日過ごしてきた時間を思い出すかのように。
「君島はサンシャインの展望台って来るのはじめて?」
「はじめてだよ。夜景が綺麗ってのは聞いていたから行ってみたかったんだけど、なかなか機会がなかったんだよ。だって――」
 くるりと亜麻色の髪をなびかせながらこちらに振り返って照れくさそうに笑った。
「ひとりじゃ、なかなかこういう雰囲気のところって来れないでしょ」
 サンシャインの展望台は海の入れ知恵だった。もし時間に余裕があったら行ってみてはどうかと。
「わぁ、こっちの方角はスカイツリーが見えるんだ。綺麗だなぁ、すっごく綺麗……」
 池袋の燦然とした光に照らされる智幸の横顔。陶酔する彼女の表情は妖しい魅力があって、俺の意識は夜景よりそちらに向いた。
「ねえ、見て。ほら、綺麗だよ」
 俺に教えるよう夜景のポイントを指差す智幸。うっすらとガラス窓に映る俺たち。どちらからというわけでもなく、肩が触れあいそうな距離まで近づいていた。
 右の手のひらに残った彼女の感触。映画館での出来事を思い出して、鼓動が全身を震わせるぐらい強く脈を打った。浮足立つような高揚感に空すら飛べそうだと錯覚しそうになる。
「綺麗な夜景。君もそう思うでしょ?」
 同意を求めるような、無邪気な笑顔。漆黒の夜と無数の光に濡れる池袋の街を背負った智幸は映画のワンシーンのように映えていた。
 視線は彼女に奪われて、意識はその心に釘付けになって、このままずっと時間が止まっても俺は神を恨まないだろう。
 胸が締め付けられるような、でも角砂糖を舐めるような、甘さと苦しさが同居する感覚の正体に、俺はもう気づいていた。
 なにも難しい話じゃなかった。
 いまさらごまかす必要もなかった。
 白状していい。
 ――俺は君島智幸が好きなのだ。
 そう認めた瞬間、オセロの白と黒がひっくり返るように、俺の心象世界はがらりと変わった。これまで保留して曖昧なままだった感情の色合いがくっきりと一色に染まっていく。
 大学の屋上での出来事。告白紛いと濁してきた言葉は間違いだった。あの気持ちは本物で、もはや紛いではない。いまなら言える、告白だと。
 智幸が風邪で寝込んで倒れたとき、家に訪れたのは心配だからだ。憔悴してやつれた頬を見て、好きな人のためになにか尽くしてやりたいと思ったのだ。
 映画館までの時間は確かに見返りだったかもしれない。しかしもう見返りの時間は終わっている。貸しとか借りとか打算や口実のいらない時間。いまここで智幸と同じ空気を吸って、同じ景色を見ているこの時は――デートなんだ。
 動揺はなかった。
 ぼやけていた感情の輪郭がくっきりと縁取られ、心はやけに落ち着いていた。
「君島」
 襟を正す。
 ふわりと智幸はショートの髪を浮かせて、こちらに振り向く。
「君島」
 二度、彼女の名前を呼ぶ。
 ただ名前を読んでいるだけなのに、胸の中で溢れた気持ちが声に帯びて、滲んで、智幸に伝わっている気がした。
 胸の奥から激しい欲がこみ上げてくる。一歩、二歩と彼女の内側へと近づく。
 周囲にはだれもいない。心を酔わすような壮大な夜景だけが広がっている。
 ついてきてくれた。こうして俺の誘いに乗ってくれた。偶然とはいえ手だって握れた。性急かもしれないと思う反面、今日一日の時間を思い出して、いいんじゃないかと自分自身に言い聞かせた。
 後悔したくない。
 この機会を逃したら後悔すると思った。
 作法も礼儀も詳しくはなかったけど自然とうまくいく気がした。だからゆっくりと彼女の肩に手で触れた。
 俺の内にあるもの、俺がこれから求めようとすること、それらを智幸は直感的に察して頬を強張らせた。睫毛も唇も、髪の毛なんて一本も揺れずに固まっている。硬直したなかで唯一、視線だけが焦点を定まらず揺れていた。
 怯えたように智幸は顔を伏せた。
 智幸の反応は嫌がっているのかと思ったが、俺の心の声を聞いたみたいに小さく頭を振った。
「違う。違うの」
「……君島?」
「これ以上は、私じゃなくて……君が嫌になるから」
 意味がわからなかった。智幸じゃなくて俺が嫌になる?
「――そっか。大学の屋上で君が言ってくれたこと、やっぱり本気でいてくれたんだ」
 その一言で、凍りついて停止していた時計の針が動き出した。
 ずっと一時停止されたシーンに再びカメラが回りはじめる。途中で止まったままのカットの続きが、唐突にカチンコが鳴って再開される。
〝特別な時間〟が幕を開ける音がした。

PageTop▲

««

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。