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青春アメとミエナイ彼女

27話 世界を構築するのに必要な人間の最小単位

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「君島が退学……?」
 はじめは、聞き間違いだと思った。
 だけど海は眉を八の字に下げて冗談だという気配を見せない。
「きのう、君島さんが教務課に退学届を出しにきたんだ。僕がそれを、受け取った」
「受け取った……? 受け取ったって、なんで!?」
 動揺して喚いて、海の沈んだ両肩と背広姿を見てすぐに思い当たる。なんでもくそもない。それが仕事だからじゃないか。
 目眩がした。
「そんなに……。いきなり大学辞めるって、そんなことが……」
 海の言葉がまだ信じられなかった。
 いや、信じたくなかった。
 事態の急転にありえないと否定しようとしたが、いつの日か聞いた智幸の声が耳元に残っていた。
 ――時々、大学辞めて帰ろうかなって気持ちが揺らぐんだけどね。
「どうして……」俺の言葉は弱々しかった。「どうして、ここにきて君島が大学を辞めるなんて……」
「実家に戻るって言ってた」
「実家?」
 実家って、香川か。馬鹿な。だってあいつ、自分の生まれ育った場所から、家庭から出たいと言って上京してきたんだろ。
 どういうことだ。退学に踏み切ったのは親との関係に変化があったから? 親の身になにかあった? いや、それとも前に話していた経済的な事情? やはりバイト生活で疲弊したから? 夜の授業についていけなくなった? 最近授業を休みがちだったのは退学の準備をしていたため?
 数々の疑問が泡のように弾けていくなかで、海がそれを口にした。
「君島さんはこうも言っていた。ここにいないほうがいいと思った、って」
 ――俺の振る舞いが、智幸を追い込んでいた?
 そう考えると寒気がした。
 そうなのか。そうなのだろうか。
 わからない。わからないが、俺はなにかとんでもない間違いを犯したんじゃないのか。
 俺が原因であっても、そうでなかったとしても、智幸のことを想うならもっとあいつの立場に立って考えてやるべきだったんじゃないのか。
 どこを間違えた。なにがいけなかった。
 智幸の撮影に失敗してしまったことか。それとも展望台で事情を知ってなにも言えず帰してしまったことか。もしくは迫っておきながら智幸の真実を聞いて固まってしまったことか。
 池袋で見返り以上の時間を求めたこと? 映画館で終わらせとけばいいのに展望台まで誘ったから?
 家に押しかけなければよかったのか? あいつと二人だけの時間を過ごさなければこうはならなかった?
 大学の屋上で共振しなければ。銅像で待っている智幸を迎えに行かなければ。
 好きにならなければ。
「――――っ」
 心を殴打された鈍い痛みに苦悶した。
 大学を辞めて香川に戻るというのは、俺が転部して会う機会が減るというレベルの話ではない。もう会えないも同然だ。すれ違いさえ起こらず、互いの視界からいっさいがっさい消える。
 焦った。すぐさまポケットにしまった携帯を手にして――だが瞬間、強烈な疑問が突き刺さった。
 ――なんで焦るんだ?
 携帯を持つ手が凍りついた。
 会えなくなるからって思うのは、俺の自分本意な考え方じゃないか。
 智幸はなにも捨て鉢な態度で退学するわけではないはずだ。撮影の別れ際、自分の未来について考えたと明かしてくれた。あのワンルームで夜を過ごしながらひとり熟慮していたのだ。
 退学こそが、智幸が選んだ道。
 俺の視線の先には転部転科説明会会場がある。そこは晴れていて、うとうと眠ってしまいそうなほどひだまりが心地よくて、ドラマなんかでよく描かれる大学生像が広がっている。俺には俺の道をと、智幸が優しく背中を押してくれた世界。
 お互いに自分の道を。そう、智幸は望んだんじゃないか。
 四肢がもがれそうな痛みを抱えながらも、ポケットに携帯をしまった。俺は胸の奥で瞬く光を牢に閉ざす。
「……海、伝えたかったことはそれだけか?」
 素っ気ない反応に海は目を細めた。
「そう、だけど……」
「だったら俺はもう行くぞ」
 言って、心が急速に渇いていった。真冬みたいに冷たくなっていった。
「待ってよ九。君島さんいなくなるんだよ。辞めちゃうんだよ」
「……んなこと、いちいち言われなくたってわかってんだよ。俺はこんなところでぼやぼやしていられないんだ。用事があるから」
「そんな。用事って、君島さん退学するのに、それ以上に大事な用事って……」
 ふいに海が俺の視線の先にあった転部転科の張り紙を見て、目を大きく見開いた。俺の表情をうかがうように一瞥して、それから再び張り紙を凝視する。
「まさか、九……、これ……」
 察したように、海は困惑していた。こいつは鋭い。付き合いだって短くはない。きっとこの張り紙を見た瞬間、俺の行き先とか、心情とか、将来のこととか、多少なりともわかったはずだ。
「……じゃあな」
 いまこの瞬間、俺の将来に関係する場面で、海はこの説明会の価値だってわかっているはず。それなのに呼び止めていいのか、動揺しているはずだ。
 自分の未来だけをずっと真っ直ぐ見据えてきた海ならわかるはずだ。他人の未来を左右する上で、踏み越えていけないラインがあると。干渉してはいけない部分があると。
 海は自重するはずだ。呼び止めないはずだ。
 だから俺は、踵を返して説明会会場に体を向けた。
「――待ってよ」
 だが、海はそのライン踏み越えてきた。
「本当にそれで納得できるの?」
 それでもと、こいつはお節介を平然とかましてきやがる。
 迂闊だった。
 いまの海が見ているものはネパールだけではない。
 いまの海は、真季と付き合うまでの海とは違うじゃないか。
「九はこのままでいいの? 納得しちゃっていいの?」
「いいもなにも、君島の決断したことに口を出すべきじゃねえだろ」
「それで後悔しないって言える?」
「くどいぞ」
 口調がささくれ立つ。
「お節介がすぎるんだよお前は。ほっといてくれよ。納得する。納得するしかねえんだ。後悔しねえよ。いいんだよ。もう、俺たちはこれでいいんだ」
「いいって言うなら、どうしてそんな辛そうな顔をしているんだ」
「――――っ!」
 すべてを見抜かれそうで、咄嗟に俺は顔を隠すようにうつむいた。
「九、僕は君に感謝してるんだ。以前ネパールに来てくれたとき言ってくれたよね、『意外と近かったぞ』って。なんて無茶をやるんだと思ったよ。だけど、ありがたかった。大切なのは距離的な問題じゃなくて、距離なんてどうってことないと思える気持ちのほうだって教えてもらった。その気持ちに気づけなかったら、僕はいまも悩んで、大人になったらすごい後悔してたと思う。だから、九には後悔してほしくないんだ。たとえどういう結末でも、いまから時間が経って過去を振り返ったとき、後悔しない選択をしてよかったと、そう思ってほしい」
「…………」
 説明会開始までもう時間がなかった。このまま立ち往生していたら余計な感情に縛りつけられて足が動くなりそうだった。
「もう、仕方ねえことなんだよ」
 床から靴底をひっぺがす。
 光りに導かれるように会場を正視する。
 過去を振り切るように足を前に出す。
 だが、一歩は踏み出せなかった。ぐいっと、後ろに引っ張られる力を感じたからだ。
「待って九ちゃん!」
 何事かと思って振り返れば、真季がいた。驚いた。さっきまでいなかったはずなのに、彼女の童顔がすぐそこにある。全力で走ってきたのか肩で呼吸している。額に大粒の汗を浮かばせながらも俺の手首をがっちり掴んでいた。
「なんで、真季が大学に……?」
「おべ、ん、とう……っ!」
「は? 弁当?」
 真季はぜえぜえと乱れた呼吸を落ち着かせ、証明するように右手にはランチボックスが入った手提げを掲げた。
「あたしが時間あるとき、バイト中の海ちゃんにお弁当届けてあげるんだ。それで休み時間に一緒に食べる。今日なんてそぼろでハートマークとか作っちゃったよ! どんだけ気合い入れてんの、いまどきハートってねえよっ、って作りながらセルフツッコミかまして笑ったもん!」
「……お前、なに言って……」
 あまりの突拍子のなさに俺は呆けた顔をしていたと思う。それでもお構いなしと真季は汗で額に張りついた前髪を剥がして続けた。
「あと海ちゃん大学生のくせにまだタコさんウインナー好きと言うから、たくさんタコさん作ってあげた。あとあと、海ちゃんあたしが作るとなんでもおいしいって言ってくれるけど、卵焼き甘めにするとすんげー顔ニマニマすんの。だから今日も甘め。甘々だ。どーだ、すんごい愛情の詰まったお弁当だ! どこにも売ってないぞ! 世界でひとつだけのもんだ! すんげーだろ! 一緒に食べるんだ! ラブリーだ! ラブラブだ! バッカみたいだ! でも幸せだ! とびっきり幸せないまを謳歌してる!」
「なにが言いたいんだよお前!」
「諦めなくてよかったよ!」
 小さな体を震わせて、ありったけの声量をぶつけてくる。心のど真ん中に飛び込んでくるような強い言葉だった。
「諦めなかったからいまがあるんだ。九ちゃんが一緒にネパールついてきてくれたから、いまがあるんだ」
 ぎゅっと、真季の手首を掴む力が強くなる。石みたいに白くなった俺に、自分のあたたかな温度を分け与えるように。
「あのね、あの撮影の日に見たこと、あたし黙ってた。それを口にしていいのか、しちゃいけないのか、わからなかったから。なにがトモちんにとっていいことなのか、わからなかったから」
 撮影の日に見たこと? なんだよそれ?
「けど、きのう海ちゃんから電話かかってきて、トモちんが退学するって聞いて、やっぱ言わないのはまずいなって、九ちゃんは知っておいたほうがいいと思った」
 真季の意味深な言い回しに、自分の足元がぐらぐらと揺れている感覚があった。嫌な予感がした。試験終了前にうっかりマークシートのズレに気づくようなぞわぞわとした不安感。ズレなんかないと精神を正常に保とうとするバイアスと、俺はなにか重大なことを見落としていたんじゃないかというおぞましさ。相反する二つの思いに引っ張られながらも、俺は恐る恐る聞いた。
「言うって、なにを……?」
「泣いてたよ」
 真季は涙目だった。
 俺は目を剥いた。棒立ちだった。
「撮影が失敗してトモちん帰ろうとしたでしょ。すごく嫌な予感してさ、トモちん止めようと掴まえたとき、一瞬、本当にちらっとだけど横顔見えて、泣いてて、あたしびっくりして、つい手放しちゃった……」
 耳を、疑いそうになった。
 智幸の泣き顔なんてうまく想像できない。記憶の引き出しからあいつのいろんなカットを持ってくるが、あいつが俺の前で涙を流したカットなんて持ち合わせていなかった。
 だってあいつ、最後に見せたのは微笑で、水を汚さず立つ鳥のような潔さで去っていったじゃないか。あいつはもう俺と視線を重ねることなく、ひとり別の方向を――
 違う。
 バチッと頭の中で燃焼して回路がつながった。
 ――後腐れがなく、俺の背中を押すためなのか。
「泣いてるトモちん見て、あたしわかった。わかったんだ。諦めたんだって。髪切っちゃったのだって、きっと諦めた結果なんだ」
「諦めた?」
 真季は潤んだ瞳をごしごしと乱暴に拭って、俺を見据えた。貫くようなまっすぐな眼差しは、まるで瞳で答えているようだった。
 ひどく動揺した。
 信じられなかった。
 素直に受け止めるなんてできなかった。
 ないだろ、それは、ありえないだろ……。
「適当なこと言うなよ、言わないでくれよ……。なんだよ諦めるって。そんな、そんなことって……。ねえよ。あるわけない。みっともなくて、不器用で、愚直で、こんな、こんなどうしようもないのに……」
「卑屈になるな!」
 真季が涙目で怒鳴った。横っ面を引っぱたくようなインパクトに体の芯が揺さぶられた。
「どうして……」
 手が小刻みに震える。
「どうしてだよ。真季になんでそんなこと、わかるんだよ……」
「だって、女の子同士だもん」
 真季は、真季の視点で俺には見えない智幸の領域を見ていた。きっとそれは海だって同じで、海の視点で智幸を見たからこそこうして俺に伝えてきてくれた。だとしたら俺が、俺だけが見える智幸の領域があるはずだ。
 見えている世界と見えない世界の境界線上に立つあいつ。
 俺が、俺だけ見える世界。
 俺がカメラに映すのは――
「智幸」
 もういない彼女の名を口にする。
 胸が焼けるように熱かった。
 いつしか手の震えはおさまっていた。
 足元がしっかり地に着いている感覚があった。
 視界の明瞭度が上がって世界が澄みきって見えた。
 そのとき、転部転科説明会の張り紙が視界の端に入ってきた。
 朝起きて、太陽の光が溢れた教室で授業受けて、友達と笑いながら飯食って、夜は寝そべりながらみんな見てるバラエティ番組とかリアルタイムで見れて、明日になったら番組の話で盛り上がって、だれもが享受できるどこにでもありがちな、けれど暖かな光があった。五年浴びられなかった光。このまま社会に出たらきっと味わうのは難しい。社会から与えられた猶予期間は平等で、それを消費してしまえばもうきっと戻れない。羨んで、羨んで、妬んで、手に入れられなかったもの。
 説明会会場に続く世界は晴れているように見えた。
 そんな世界を、俺は振り切った。
 気づけば反転して走っていた。
 迷いは、時間にしたら一瞬。
 説明会会場とは正反対の校舎の出入口へ、胸を打つような激動にまかせて疾走していた。
 すでに背後にいる真季が「いいぞぉ――っ! 九ちゃ――――んっ!」なんてキャンパス中に響き渡るほどバカでかい声をぶつけてきた。
 いい?
 いいわけがねえ。
 遅れちまった。ラストカットに失敗して幕は下りたとひとり気落ちして、あいつが退学届出すまで大事なことに気づけなかった。
 いまさら手を伸ばしても間に合わないかもしれない。
 だけど許されるなら。
 すべてが手遅れになる前にもう一度だけ――
 晴れの世界を背後にしていく。俺が向かうべき場所は降りやまない雨、その中心。彼女がいるアパートへと一直線に駆ける。
 走りながら携帯を手にして智幸に電話をかける。だがつながらない。機械的な音声が電波の届かない場所か電源が切れているためと酷薄に告げている。
「くそっ! 携帯持ってたってすれ違うじゃねえか!」
 体内のギアを一段上げて加速する。少しでも早く会って声を届けようと身を粉にする。
 競走馬が地面を踏みしめる勢いで校舎から飛び出す。屋外に出ると雨が降る前の生ぬるい気配を肌が感じた。心がざわついた。これ以上先に進めば晴れの世界には戻れない。いずれスコールのように豪雨が降りはじめるだろう。
 いまさらだった。
 勾配を駆け下り、校門を抜けて通りに出る。
「タクシー、タクシーは……っ!?」
 教授などが利用して時々通るのを見かけるが、タイミング悪くいまは見つからない。一秒でも早く向かうなら車がいいが、このまま待ちぼうけをくらう可能性がある。智幸の家は大学からそう離れていない。なら――
 だん、と地面を強く蹴り上げた。
 あらゆるものを取っ払って。陽光射す日常とか、だれもが享受している普通とか、そういったもの全部投げ捨てて。
 がむしゃらに、ひたすらに。
 顔を向けるのは上でも下でもない、前だ。ただ前だけを。
 体が軽い。足に翼がはえたみたいだ。
 智幸、一秒でも早く智幸のもとへ。
 両足で風を切る力は、肉体を前進させる衝動は、あいつへの同類意識でも、依存でも、ましてや罪悪感なんてものじゃない。
 それは圧倒されるような感覚。
 強い一念でコンクリの歩道を疾駆していく。
 大幅なストライド。余力を残す必要はないトップスピード。両腕を振って六月の風を切っていきながら思い出したのは哀しげに微笑む智幸だった。
 香川。実家。あいつの育った世界。どれほど智幸の理解者がいるかわからないけど、そこには父親がいる。病気になってもそれは本人の精神が軟弱だと言い張る時代錯誤のような人物。理解されず、変わることが許さないような象徴として存在。そんな言い回しだった。
 ガレキで覆われたような窮屈な世界。智幸はどれほどの苦痛があったのか。どれほどみんなとのズレに胸を痛めたのか。
 俺は昼間から作業服着て、大学生なのに勉強するより仕事してる時間のほうが長くて、まるで社会人のかぶりもの着ている違和感があった。時々思わされた。「どうしていつも自分ばっかりこうなんだって」って。でもそれを口にしたら本当に負け犬みたいになりそうで軽々しく言いたくなかった。
 でも、智幸と出会って薄々感づいていた。
 ――普通じゃないと思ってんのは、俺ひとりだけじゃない。
 智幸も人とは違うものを抱えていた。同じなんだと共振した。
 いや、ひょっとしたらそれは智幸だけじゃないかもしれない。真季も、海も、二部の連中も、一部の連中も、歩道を歩いている見知らぬ他人だって、だれもが程度の違いこそあれどなにかしら抱えながら生きてるのだろう。
 でも、それでも、やっぱり普通からつまはじきにされたと感じる気持ちだって嘘ではなくて、智幸がいまもそう思っているなら、自分の気持ちをなにも伝えずこのまま香川へと帰したくなかった。
 泥にまみれて見えなくなった俺の気持ちを手で掻き分けるように探って、泥を払って、ようやく見つけた自分自身の在り方。
 ほかの連中が智幸をどう見ても、智幸の父親がどれほど否定してきたとしても、あらゆる常識や普通なるものも関係ない。
 世界を構成するのは二人いればいいと智幸は言った。智幸と、そして俺がそこにいれば世界が完成する。
 俺の視点さえあれば、智幸は智幸でいられる。あいつが本当にありたいと思う自分でいられるように、俺は俺のやれることをしてやりたい。
 だからこそ、ちゃんとあいつを見なくちゃいけないんだ。
 目に見える部分だって。
 目に見えない部分だって。
 これでもかってぐらい目を見開いて見る。全部、全部――
「はぁッ、はぁッ……!」
 息切れをおこす。呼吸が乱れる。太ももの筋肉が悲鳴を叫びはじめる。ひっきりなしの全力疾走は俺の両足を消耗させた。フォームが徐々に崩れ、もはや爽快な走りではなくなる。
 足がふらついてつまずきそうになる。
 足の裏の感覚がなくなってくる。
 つんのめってこけそうになりながらも手で地面を押し返し、速度をつける。
 重力に負けないように。
 世界に押し潰されないように。
 空っぽになりかけの体力。それでも全身の力を振り絞るように前に前にとつま先を出していく。
 額からこぼれる汗を袖で拭うと、やっと見えた。
「着い、た……っ!」
 二階建てのアパート。智幸の住んでいる部屋は、二〇一号室。
 ぜえぜえと肺に穴が空きそうな過呼吸。だが休む間もなく体力の残滓をかき集めて俺は階段を駆け上がり、二〇一号室のチャイムを押した。しかしなぜか鳴らない。ドアをドンドンと叩いた。だが反応がない。
 この先に智幸がいるはずなのにまだ届かない。分厚いドアが壁みたいに遮断している。
 さっきまで熱で発汗していたはずの汗は冷たいものに変わっていった。焦燥感にかられて無意識にドアノブを回していて――あいた。鍵がかかっていなかった。
 気が急いていた。コンマ数秒も待てなかった。だからぶしつけにもドアを開けて、なだれ込むように玄関へと足を踏み入れた。
「智幸!」
 部屋に残響するほどの声量で彼女の名前を呼んで、俺は視界に映った光景に愕然とした。
 空っぽだった。
 まったくと言っていいほどなにもない。可愛らしいキッチン道具も、映画がぎっしりと詰まったDVDラックも、彼女の匂いまでも全部が全部ごっそり消えている。
 なんだよ、これ……。どういうことだよ……。
 引っ越したあとのような空虚さだけが広がっていたが、部屋に人がひとりいた。背広姿の小太りな男性で、なにやらチェックしているように押し入れを開け閉めしていた。その仕草がどことなく不動産屋っぽく、俺の姿を見ると向こうも驚き固まっていた。
「えっと、あの……」
 困惑気味の声を出したのは俺だ。
 がらんどうの部屋に、見ず知らずの人間。最悪なケースが頭のなかを過ぎった。不安で胸がいっぱいになりながら恐る恐る口にした。
「すいません、あの、君島智幸、ここに住んでいた君島さんはどこに……?」
 小太りの男性はいきなり質問を受けて戸惑っていたが、俺の深刻そうな表情を見て答えてくれた。
「先日出て行かれましたけど……どちら様でしょうか? これから清掃員が来てクリーニングを行うところなんですが――」
 途端、目の前が真っ暗になった。背広の男性の言葉が途中から耳に入ってこなくなった。
 突きつけられた冷たい現実は、ただひとつ。
 ――間に合わなかった。

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